風のある景色(美紀子)
正解だった。両の手で包むように持っている紙コップの中のコーヒーを眺めながら工藤美紀子はそう思った。
「箱根にドライブに行かないか」と美紀子は昨日、会社の同僚の青木康平に誘われた。青木とは部署は違うが、仕事上一日に一度は顔をあわせている。彼の仕事に対する能力は十分であり、彼女も頼りにしている。というより、少しばかり、ひとりの男性として意識し始めてもいた。しかし、久しぶりの<箱根>には惹かれたが、<ドライブ>という言葉の退屈な響きに彼女はほんの少しだけ違和感を感じ、丁寧に断った。すると青木は「じゃ、またの機会に」と言ってオフィスの廊下を歩いていった。が、彼女は青木の少しだけ見せた不愉快そうな表情を見逃さなかった。
美紀子は視線を駐車スペースのほうに移し、そのままコーヒーを口に含み、ほんの少しだけ微笑した。
彼女の視線の先には彼女の所有する銀色のツードアクーペがあった。東名高速の中では大規模な、そのサービスエリアは早朝ということもあり、まだ駐車スペースに余裕があった。
もう、十分に旧式という感が否めないその車を中古車として手に入れ、そろそろ1年が経つ。フロントノーズが伸び、テールへと流れていくそのデザインは彼女によく似合っていると、彼女を良く知る友人から言われたことがある。彼女もそのデザインが気に入って手に入れたのだが、それよりも彼女の気持ちとシンクロさせることが出来るステアリングの感覚と程よいエンジンパワーが今は何より気に入っている。
朝日を映しこんだオレンジ色の空が彼女のクーペを同じくオレンジ色に染め、彼女の着ている白いシャツをも染めていた。その光景は彼女が昨晩期待した通りのものだった。正解だった。青木の誘いを断ったことも、今日一人で車で出かけてきた事も、このシャツを選んだことも。
ふと、彼女の耳に重々しい排気音が聞こえてきた。視線を駐車スペースからそらし、サービスエリアの進入路に向けると、一台のオートバイが入ってきた。オートバイは彼女の目の前の所定のスペースに流れるように入り、排気音が周囲の空気を振るわせた。低く響くその音に彼女は心地よさを覚えた。が、使い込んだ革のグローブに包まれた手がキースイッチに伸びると、フッとその音は掻き消え、先ほどと同じ、それ以上の朝の静けさがあたりを包んだ。
彼女は少しだけ残念に思いながらその視線を引くと、その乗り手はまだオートバイに跨ったまま、真上を向いてた。あまりに長く上を向いているので、美紀子も何があるのかと空を仰ぎ見た。先ほどのオレンジ色の空は若干色を変え、蒼空と呼べる青が大部分に渡り、広がっていた。
視線を戻すと、もうオートバイの乗り手は居なくなっており、銀色の燃料タンクに空の青を映しこんだオートバイだけがたたずんでいた。そのオートバイは美紀子が今まで見てきた友人の所有するスポーツタイプのオートバイと違い、風防が無く、エンジンは剥き出し、しかしヘッドライト、燃料タンクから段差のあるシート後方まで流れるような線を描く、見たことも無いデザインだった。
美紀子はもう一度先ほどの排気音を聞いてみたく思い、少し待ってみようかと思ったが、飲み終えた紙コップを処分し、はき慣らしたオンスの高いジーンズに包まれた脚をクーペに向けた。
美紀子はしばらく、交通量のまだ少ない、東名高速を西に向かって、心地よいと感じるスピードで走っていた。カーラジオからは”休日の朝特集”としてGeorge
Winstonのピアノにのせて、やさしい、しかし色気を隠し切れないナビゲーターの声が届いていた。美紀子はこのラジオプログラムの人選は少しマチガイではないかとふと思った。やさしい声の持ち主だし、きっと素敵な人なのだろうと想像できるが、休日の朝にこの色気は・・・。しかし、気にするほどの不快感は無く、ラジオはつけたままにしていた。
後方の確認の為にルームミラーに目を向けるとそこにはリアウィンドー越しに小さくライトが1つ映っていた。「さっきのオートバイだ」彼女は直感的に思った。それは正しかった。
小さかったライトはあっという間にその全体をミラーの中に映す距離に近づいてきた。しかし、オートバイはそれ以上距離を詰めず、一定の距離を保って彼女のクーペの後ろをしばらく走った。自分を追い越していく事を想像していた彼女が「どうしたの?」そう思ったと同時にオートバイは車線を1つ右に移し、あっという間に彼女のドライバーズシートの隣に並んだ。すると、オートバイの乗り手は彼女に視線を向けハンドルから左手を離し、彼女に向けてその手を伸ばし、鳥のくちばしのようにその左手をパクパクと動かした。可愛らしいアクションだと美紀子は思い、何をしているの?と表情で返事をすると、オートバイの乗り手は彼女のクーペの右前方を指差し、もう一度、”鳥のくちばしアクション”をやって見せた。その時、彼女は気がついた。右の方向指示器が点滅したままになっていた。彼女はハンドルを握るその小指と薬指でウィンカーレバーを上方に跳ね上げ、オートバイの乗り手に視線を移すと彼はうなずきながら彼女に伸ばした左手をハンドルに戻した。そして、幅のある音域の、まるでジェット機が空へ駆け上がって行くような排気音を残し、猛然とした加速で美紀子の視界から遠ざかっていった。
美紀子はふと、取り残されたような気分になった。
左斜め前方から射して来る朝日に向かって、左手を伸ばし、パクパクと”鳥のくちばしアクション”をやってみた。彼女は笑顔だった。
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