風のある景色(日野)
正解だった。高速道路のチケットを太ももに括り付けた小さなケースに突っ込みながら日野駿介は思った。
昨日、仕事を終え、都心から少し離れた部屋に戻った日野はいつもの金曜日と同じように、テレビのリモコンを手にし、24時間天気予報のみを放送しているチャンネルにあわせた。音声の無い、意味不明な音楽がBGMとして流れているその画面は大陸の高気圧が東日本を包みこんだ天気図を映し出していた。彼はその事を確認すると、一本の電話をかけ「明日は用事が出来たから・・・ゴメン」という内容の用件を極めて短い時間のなかで相手に伝えた。その後、彼はガレージに降り、彼の所有するオートバイの点検をはじめた。駆動系、制動系、電気系とひとしきりチェックし終えた後、少し気になったドライブチェーンにグリースを補充した。日野は頷きながら、タバコに火をつけながら、外に出た。三日間降り続いていた雨が上がっていた。
東京インターのゲートを通過し、数10メートルの路肩に日野は停まっていた。空の色が夜から朝へと変化し始めていた。彼の両足の下で4気筒1300ccのエンジンは1,000回転を少しだけ越えたアイドリングを繰り返しており、4つの排気ポートを1つにまとめたレイアウトのエキゾーストパイプから消音器を経て後方に低く、重厚な音を響かせていた。彼は緑と赤のLEDが示す燃料の残りを確認し、サイドスタンドに預けていた250kgを越える車体を直立にしてスタンドを蹴り込んだ。後方のグリーンに光るゲートから何も飛び出して来ない事を確認し、オートバイを発進させた。
前方に走行している車両はまったく無く、日野の視界には路面と空の色彩だけが広がった。フルフェイスのヘルメットの中で彼の口元は笑っていた。
走りながら日野は空の色の変化を楽しんでいた。彼の周囲には走行車両は無く、ほんの少し顔を動かせばバックミラーを含め、限りなく360度に近い範囲を確認する事が出来た。昨晩想像したとおりの光景だった。日野は”そろそろかな”と視線を燃料計に視線を落とすと緑4つ赤1つのLEDはその点灯を赤のみに減らしていた。ちょうど視界に飛びこんできたサービスエリアの表示に従い、彼は本線を離れた。一つ一つ丁寧にシフトペダルを踏み込み、十分に減速してオートバイ用のスペースを探した。休日の朝には珍しく、そのスペースにはまだ一台の先客も居なかった。サイドスタンドを左足のかかとで出し、巨体をゆっくりと預けて、彼はハンドルから手を離した。ヘルメットのシールドを上げ、メインスイッチとなっているキーをぱちんと捻るとエンジンの鼓動が止まり、彼の周りから音が消えた。日野はこの瞬間が好きだ。低く響く排気音がフッと消えると、そこがどんな場所であれ、一瞬だけ”静けさ”を感じる事が出来る。彼はその感覚を楽しみながら上空を見上げた。そこにはやはり、天気図どおりの蒼く広がる、朝を迎えた空が広がっていた。
コーヒーでも飲もうと彼はバイクを降り、売店の方向に向かって歩き出した。ふと視線をずらすと、上を向いた女性がベンチに座っていた。彼にとっては少し意外な光景だった。女性でもあんな風に嬉しそうに青空を眺める人がいるのだな・・・と。
日野は自動販売機でコーヒーを買い、その販売機に背を預けて紙コップの中の香りを楽しんだ。彼はいわゆる猫舌であり、いつも熱いものはすぐに口に運ばず匂いを嗅ぐ癖があった。その癖をよく親にたしなめられたが、20代後半となった今でも幼い頃のままだった。その時、視界の端に歩いていく女性の後姿が入った。背筋を伸ばし歩を進めるその後姿は先程の女性だった。白いシャツのすそをジーンズの外へ出し、大またに歩くその後姿に、髪を首もとで束ねた水色の小さなスカーフがやわらかさを演出していた。
彼はベンチに腰をかけ、やっと飲めるようになったコーヒーを楽しみながら、正面にたたずむ自分のオートバイを眺めて、何処まで行こうか?と考えていた。が、考えのまとまりよりも早く、紙コップの中のコーヒーはカラになった。
紙コップをダストボックスに投げ入れた時、指先についたコーヒーの滴をジーンズの尻に擦り付けながらオートバイに跨り、もう一度、空を見上げて日野は視線は移さずにエンジンに火を入れた。
給油を済ませた後の燃料計はLEDが全て点灯し、15リットルのガソリンがタンク内にあることを示していた。光るという使命を持って生まれた小さな機器がその役割を忠実に、そして効果的に果たしていることに少しだけ微笑ましく思い、「ターンパイク・・・」日野は行き先を決めた。
>> 風のある景色(日野2)